熊野神社に小学生の集団参拝客皇紀2685年霜月

初めての遭遇ですが、高松市立多肥小学校の2年生51名が先生に引率され、地元熊野神社に学習参拝していました。いつもは境内で説明するようですが、今日は社殿の中で説明が始まっていました。これまでにも地元多肥小学校からは、5年生の集団参拝研修があったようですが、私は説明する熊野神社神社代表責任者・飛倉喬さんと前事務局長・川西澄夫さんの話も、それに聞き入る小学生の姿も初めて拝見しました。

ここ出作の熊野神社がいつ頃創建されたかの古文書は、残念ながら発見されていませんが、先の川西澄夫さんの話によれば、近くの桜木神社が西暦900年頃、今から1100年前に建立されており、川西澄夫さんの憶測ですが西暦1200年頃にはこの熊野神社の原型も存在していたと思われます。そもそも熊野神社(熊野三山)誕生の歴史は、日本の神道・山岳信仰・仏教が深く混ざり合って形成され神社という形ができるよりもはるか以前、自然そのものを神として敬った原始信仰にあります。

『古事記』『日本書紀』(あわせて記紀という)によると、紀元前660年頃とされる『神武東征(じんむとうせい)』(日本神話における初代天皇・神武天皇が九州から大和(奈良)へ向かい、国家を建てたとされる伝説的な遠征)で、この物語では、神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)が「日の昇る東の地」こそ理想の統治地と考え、兄たちとともに日向(宮崎県)を出発し、幾多の困難を乗り越えて大和(奈良県)に至るまでの旅路を描いています。

物語では、途中で幾多の苦難に遭遇しながら何年もかけて和歌山の熊野へ船で上陸します。大和への行く道が分からなく難儀していたところに、3本足の八咫烏(ヤタガラス)が舞い降りてきて、神武軍を吉野から大和へ導く神使としての役割を担います。全国3,000社共通のシンボルの八咫烏は、日本サッカー協会のエンブレムとしても定着し、川西澄夫さんの話では、2本でしっかと守り3本目の足で蹴り込むという願望が込められているとか。

先述のように、全国に約 3000社以上 の熊野神社があるとされます。これは、熊野本宮大社の祭神「家都御子(スサノオ系統の神)」が病気退散・無病息災・再生の神 として人気を集め、各地の人々が熊野の神を勧請(分霊してお祀り)したためと言われております。香川県内に23社、高松市内だけでも7社、熊野神社があります。

2年生には面白くない話だったかもしれませんが、今度は両親と共に年始の初参りにお越しください。関心を示していた『お賽銭』は、お小遣いの余り10円50円玉で良いですよ。獅子舞の先導役の「きょうくち」は漢字で「曲口」と書きますが、ここ2~3年足りなくて困っています。この「曲口」という言葉は、全国的にはあまり知られていないかもしれませんが、香川県をはじめとする地域の獅子舞文化に深く根ざした重要な存在です。小学低学年が、適期です。

祭りの練習を通じて、子どもたちが伝統芸能を学ぶ貴重な機会となっています。ここ多肥地区は、土地区画整理の成果で宅地化が進み住宅がドンドン増えています。そのため多肥小学校は、四国一のマンモス校になっています。土地勘や知り合いがないのなら、地元で唯一残る獅子組に勇気を持って飛び込んでみませんか。ここの熊野神社に集う氏子は、みな太パラです。