
拝殿

本殿

【摂社】東原神社
大正7年(1918年)7月16日に宇東原から移転しました。祭神はわかっていません。昭和27年2月1日には、小櫻神社の祭神広瀬大神、龍田大神を合祀しています。

【摂社】金毘羅神社 愛敬神社
祭神は天字豆売命(あめのうずめのみこと)であり、大物主命(おおものぬしのみこと)が合祀されています。大正7年(1918年)12月4日に宇前原から遷座され境内神社となりました。その際に宇前原の金刀比羅神社も合祀されました。
この神社について、次のような伝承があります。
『大正初期まで、龍雲中学校プールの東側に約三畝の敷地を持つ社がありました。地域住民は、その社を「あいぜん神社」と呼び、藍染めの神とされて崇拝していました。「あいぜん」は「藍染」と表記されていました。藍染神社の社殿の下には金や銀の財宝が埋められているという言い伝えがあり、発掘を望む者もいましたが、実際に掘った者はいませんでした。これは、丑三つ時(午前三時ごろ)、誰にも知られないように一人で掘り返し、金銀を手にした場合、日の出までに元通りに戻さなければ神罰によって命を失うと伝えられていたためです。』

社務所
現在の社務所は、旧社務所を解体(その年の6月)してその場所に新築されました。平成29年9月7日新築と、登記されています。木造かわら葺き平家建71.39㎡(約21.59坪)で、設計施工は、仏生山町の『出作熊野神社』の氏子エリアに居住して数年の佐伯博英(㈱佐伯工務店代表取締役)さん。徳栄堂跡地に新築した自宅に引っ越してすぐから、神社当番を熱心にやっていたところに白羽の矢が立てられたのです。丁度出作町の氏子大工さんが廃業し、競合することがありませんでした。
建築費は概算で1400万円、その他設備備品等で約300万円、内時代の要請で新しく防犯カメラもつけました。氏子の寄進で2300万円を271名から集めています。1人85000円平均となりますが、その内訳は社務所入口の上部壁面に銅板の彫り込みで芳名を刻んでいます。これだと、石に刻むのに比べて50年100年先まで残ります。
社務所の3分の2は畳敷きの間で、神社会合以外でも地元自治会の集会や浦安の舞の練習、多肥地区コミュニティーセンターの敬老の日行事にも利用が拡大し、大勢の方に喜ばれています。また3分の1は、厨房設備があり、甘酒やぜんざいなどのご接待で、こちらも参拝者に喜ばれています。狭いながらも、先人が機能的に使えるように工夫した跡を、至る所に見ることがあります。
高松市の名木(楠)
摂社 金毘羅神社・愛敬神社のすぐ後ろにあります。

古札納所
本殿左奥の摂社 東原神社左手にございます。本殿左側にある神庫脇に古札納所の案内札を貼っております。

狛犬

努力の賽銭箱
拝殿前にある御神木のひとつである古木(アベマキ)の上に賽銭箱が備えてあります。

八咫烏
熊野神社は、和歌山県の熊野三山を信仰の源とし、現在、北海道から沖縄まで全国に約4,800社が祀られています。香川県下には35社ですが、そのシンボルが八咫烏(やたがらす)です。八咫烏は、日本神話に登場する霊鳥で、人々を正しい方向へ導く「導きの神鳥」として信仰されています。
『古事記』と『日本書紀』の神武東征(紀元前667年ごろ)の物語は今から約2,700年前、紀元前7世紀の古い話ですが、初代神武天皇が九州の宮崎から瀬戸内海沿いの各所を平定し、数年かけて和歌山の熊野に至る海岸に辿り着きます。そこは断崖絶壁で、西も東も全く分からなかったようですが、そこへ八咫烏が飛んできて険しい山中を先導し、正しい道へ導いたと伝えられています。橿原への道案内を得て一行は、無事到着することが出来たと言われております。熊野の神様のお使いとして、道開き、交通安全、目標成就などの象徴として親しまれています。
また八咫烏は三本足のカラスとして、日本サッカー協会のエンブレムにあしらわれているのですが、八咫烏は、導きの使いとして今では日本サッカー協会のシンボルとなっています。2026年のワールドカップで、森保ジャパンの快進撃を見守っていたのが八咫烏です。「咫」は、古代に用いられた長さの単位です。「八咫」は単に八倍というより、大きく立派であることを表す言葉と解釈され、八咫烏は「大きく神聖な烏」という意味を持つと考えられています。
八咫烏は一般に、三本足の姿で描かれます。ただし、実は『古事記』『日本書紀』には、八咫烏が三本足であったとは明記されていません。三本足の烏は、中国など東アジアに伝わる「太陽の中に住む烏」の信仰と結びつき、後世に八咫烏の姿として定着したと考えられています。
『出作熊野神社』でもこの八咫烏を、マスコットキャラクターとして今のサッカーブームが到来する前、40年前から、彫刻家・萬木淳一(仏生山町平池堤の平成乙女の像の作者)氏に依頼して、八咫烏像を作成し境内の一画に早くから飾っています。この頃のやり取りを私は存じませんが、彫刻家・萬木淳一氏の八咫烏は記紀の記載通り2本足としています。
令和のAI時代になって、新しい八咫丸君を作りました。如何でしょうか。


阿吽の碑

鳥居手前の看板

参道脇看板

参道 県道より北側

参道 県道より南側
【参考文献】
1 香川県神社誌上巻 香川県神職会編 1938年出版
2 讃岐香川郡志 香川県教育委員会香川郡部会 1944年出版
3 多肥郷土史後編 多肥郷土史編集委員会 1981年出版
